草津八幡宮について

御由緒

御由緒、伝承

古来、この草津、古江の地は深い入江であって天然の良港をなし、神武天皇、神功皇后の伝説を多く残している。

社伝によれば、推古天皇御宇(593-628)宮島の厳島神社とほぼ同じくして、この入江の奥に多紀理姫命を海路の守護神として祭ったのが当神社の創祀という。

八幡神の奉斎の時期については、諸説が社伝として残り定かではないが、鎌倉時代に武蔵国渋谷郷(現、東京都渋谷区)から当地に所領を得て来住した社家始祖(右衛門大夫または右京大夫と伝える)が宇佐八幡宮より勧請し、古くより当地に祀られていた「多紀理の宮」と合祀して八幡宮を創建し、後に力箭八幡宮と称したと言われる。また一説によると、宇佐八幡宮の社人、宇佐彦が土佐に赴き、七代目の渋谷右衛門大夫という者が当地に来り、宇佐八幡宮より金交石の御分霊を戴き、これを宇佐来山麓に勧請したとも伝えられる。

その後、大永四年(1524)するに修造。なお、往古は当社の崇敬範囲は己斐より廿日市に至る沿岸部一帯に及んでいたという。昭和六年、近郷六箇村の氏子により境内地の造成と共に総ての社殿が再建造営された。相殿神の宗像三女神の内、市寸島姫命と湍津姫命は明治二十五年厳島神社より御分霊を神馬にお乗せして正式に勧請され、素盞嗚神、倉稲魂神、金刀比羅神は明治末期神社統廃合の折、合祀されたものである。なお、古くは社殿は海浜の近くにあったと伝えられるが、再建の度に高所へ遷され、現在では力箭山の中腹に鎮座している。


伝承

神武 東征の多紀理宮(『古事記』は多祁理宮とする)の伝説は当地にも残っており、神社西下より、御幸川の間に仮皇居が在ったという伝承がある。また、神功皇后の朝鮮出兵の折、この地で軍船の船揃えをし、弓矢(箭)の訓練をした事に因み「力箭山」と称し、草津の旧名を「軍津浦」(いくさつうら)というなどの伝承がある。あるいは、往古この地は深い入江であって、草津の地名は宇佐の神を祀る津、宇佐津の訛ったものとも言われる。